私と帯広市・スワード市の関係     平成16年8月記     大園雍彦

佐賀県出身の私が、北海道とどのようにして接点を持ち、帯広を第2の故郷と呼ぶようになったかアメリカ・アラスカ・スワード市と帯広市の姉妹都市締結にどのように関わったか、スワード市開基100周年に招待され、私のホスト・ファミリーとなったスワード市長クラーク氏が「ボーイズ ビー アンビシャス」で有名な ウィリアム・スミス・クラーク博士の曾孫であった事など、「人との出会い」が創る歴史に感激しました。後でご紹介します様に、北海道新聞、十勝毎日新聞、The Seward Phoenix LOG新聞等で数多く紹介されました。

現在も帯広市長夫妻、議長夫妻、帯広市国際交流課の職員の皆様、帯広市国際親善交流市民の会 会長、副会長他会員の方々、スワード百年友の会の方々にお会いし、交流を積み重ねることができ、長生きしてきて良かったと思いました。少し長くなりますがその経緯を順を追って記していきます。

帯広市と大園との関係

戦 前

信典は明治時代、東京の英語学校で学んでいた。英語と中国語が堪能で上海領事館・濟南領事館勤務後、満州国専売公社勤務。後、満州国牡丹江市で会社経営していて、年に数回佐賀に帰郷していた。

母イシ子は大正2年東京体操・音楽学校(現東京女子体育大学)ピアノ科卒(学生時代慈恵医大で人体解剖も行った)卒業後、愛媛県立八幡浜女学校に音楽教師として赴任。母の弟、相模嘉都登が当時の大商社上海貿易に勤務していた時、父と知り合い、その紹介で母は父信典と結婚。3男2女をもうける。(末子が大園雍彦)

長兄 嘉之 大学卒業後直ちに徴兵され、終戦時は南朝鮮で気象隊の隊長をしていた。この兄の縁で私は帯広に渡った。その経過は後で述べる。

長姉 之江は大学卒業後、佐賀神崎女学校に勤務。牟田静雄と結婚(小学・中学から飛び級で海軍兵学校に入学し佐賀の神童と言われた。砲術長として日米開戦後アリューシャンで指揮官が乗った米機を撃墜し、勲章を受ける。及川海軍大臣の副官も勤め、終戦時は台湾で参謀。戦後、職業軍人は官職につけなくなり化粧品の卸業を経営)

次兄 英彦 は旧制中学3年時、予科練に入隊。終戦1年余前の事であり、飛ぶ飛行機がなく特攻隊で自爆することもなく帰郷し、戦後の食料不足時には、物資調達に長けた兄のお陰でずいぶん空腹が救われた。

次姉 鳩子 女子大受験の当日最初の東京大空襲があり、次姉は東京に行くのを怖がり父に相談、「満州は関東軍がいて大丈夫、満州に来い」の一言で渡満、

戦後、父と姉は中国各地の苦難の道のりから裸一貫で帰国しました。私の一家の境遇は終戦を境に一転しました。

戦 後

私は戦後、家庭の事情で学校を中退、生まれ故郷の佐賀を去り、(次姉の嫁ぎ先の)広島に母と共に約一年余居住、約半年間、広島の広陵高校に在籍、その後佐賀市の長姉の会社を手伝い仕事をしていました。

北海道とのつながり

戦後、南朝鮮で気象隊の隊長をしていた長兄大園 嘉之は復員後の病気療養中に飼育していた養蜂を本業とすべく、九州から北海道までの移動養蜂家をめざし帯広に渡る。そこでまた病気に倒れ、蜂は越冬することができず全滅、病気回復後忠類村の中学教諭として教員生活が始まった。後、川西農業高校(現帯広農業高校)に赴任した。

 長兄が「せめて高校ぐらいは出ておけ」との連絡があり、母と共に佐賀から水杯で長姉や兄弟と別れ、帯広に向かいました。昭和25年5月1 日、函館に上陸、連絡船を降りるとき体中にDDTを撒かれました。函館の桟橋で買った熱いおにぎりとたくあんが美味しかったこと今でも鮮明に覚えています。北海道はもの凄い寒波で帯広行きの列車を待つまで映画館で過ごしました。帯広ではいったん取り外したストーブを再度取り付けて長兄は私たちを待っていました。

高校編入 6月に兄が帯広三条高校に転校願いを出しましたがその年は「今年は現在転校枠が一杯で来年受付る」とのことで転校出来ませんでした。長兄の勤務先の帯広農高校長推薦で林科2年に転校。翌年再び帯広三条高校に転校願いを出しましたが 今度は「農高2年の資格なら普通高校の単位が足りないので2年生の転校なら受け入れる」で普通高校転校を諦めました。当時帯広農高林科から推薦で2名、三白景気に沸く王子製紙と十条製紙に就職が出来ましたので、安月給の長兄にこれ以上の負担をかけたくないので就職することに決めていました。

 帯広ではNHKラジオにギタートリオで出演したり、空気銃で食料を求めたり、新鮮なトウモロコシに感激したり、新しい友と学校生活を楽しみ自然を満喫しました。、母が痩せ地で蕎麦や手亡豆を作り換金して私の学生服を買ってくれたり想いで深い生活を送りました。

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終戦後〜1950(s25)佐賀から帯広へ
1967年 スワード調査〜帯広市役所への連絡まで  
恵迪寮 寮祭で ギター独奏
帯広市 と スワード市の橋渡し
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大園嘉之と帯広市役所との経過

 兄・大園嘉之は私の手紙を持って帯広市市役所を訪れた。市役所で検討の結果、姉妹都市に向かって前向きに進めたい。英語の通訳がいないのでオーストラリア軍の書記・通訳の経験がある兄・大 園嘉之に「帯広市役所からのSeward市への手紙を翻訳してくれ」との依頼があり、兄は翻訳して帯広市役所に渡した。

Seward調 の帯広市の発言  

1967S.421/25日調査団歓迎式がSeward市関係者&市民が集まり催されました。その折りSeward市側から、帯広市を知っているか?の発言があり、私が帯広市は私の第2の故郷である旨つげると、是非Seward市と帯広市の親善を取り持って欲しいとの要望があり、私の兄が帯広に勤務しているので依頼し、努力する旨答えました。

私は1967S.422月上旬 出張先の Los Angelesから私の長兄・大園嘉之当時、帯広農高勤務)宛てにSeward市から頂いた書類を送り、帯広市との親善を依頼した手紙を出しました

川部氏からの封筒
川部氏からの手紙

川部氏とSewardの関係
 
 戦後貧しい日本を援助してくれた川部氏に日本政府は叙勲した。三木元首相と懇意であり、三木元首相の娘さんのアメリカ留学中は川部氏が面倒を見た。私が会った時(
1966頃)川部氏はシアトルに在住し(H..S.KAWABECO.の社長)ホテルやビルを数多く所有した富豪であった。事務室のあるビルの部屋には日本の高価な骨董品が沢山集められていた。

 日系二世・川部氏のその富は、若い頃、当時の金発掘ブームに沸いたSewardでの事業により得られたシアトルには川部商会が数多くあるが、川部氏に関係ない人が屋号として使っている人もいるとか。

 三木元首相は川部氏の依頼を受け、懇意であった宝幸水産(株)社長・深尾清吉氏に「S.391964)アラスカ大地震で被害を受けたSeward市の復興の為日本企業が進出して欲しい」と依頼した。 私も深尾清吉氏と共に三木元首相と赤坂の料亭で会い調査を依頼された。

当時アラスカで事業を始めていた私に、Sewardの水産事業・新工場建設の視察・調査が命ぜられた             

19661229日消印、川部氏からの私宛1967元旦の賀状
          Japanese and American Development Co. of  ALASKA と新しい会社名が記入してある。

大学卒業後父親を亡くしていたこともあり、入学早々奨学金(500/月?)を受けることができ、またアルバイトに明け暮れ、援助してくれる兄弟の負担を幾分でも軽くできました。卒業後7年間北洋鮭鱒母船で働き、その後勤務先でも若くして認められ、渡航自由化の前から北米の仕事の企画・立案・事業責任者として北米・カナダで事業を伸ばし実績を上げ、株主総会資料にもトップで取り上げられたこともあります。

この6年間の北米での勤務中、1967(s42)アラスカ大地震からの復興事業を依頼され、調査団の責任者としてスワード市の歓迎式に臨んだ時に下記の経緯から帯広市とスワード市の姉妹都市締結のきっかけが生まれました。

大学受験 農高3年の初夏、長兄が「大学に行っていいよ」と急に言い出しびっくりしました。長兄の安月給から一揃いの参考書を買ってもらい夏休みから殆ど独学で受験対策を始めました。当時の農高の受験対策は無に等しく現役で北大に入学した人は過去いない状況でした。知り合いの家族に帯広三条高校卒の1年先輩の方が北大水産学部に入学されていましたので憧れて一次を北大に、二次を帯広畜産大学に願書を出しました。北大での受験最中、十勝沖地震がありテスト時間が5分?延長されたのを記憶しています。幸い希望の北大に入れて頂きました。幾何だけは100点満点でしたが、他の科目、(戦時下中学では英語は敵国語とされ、終戦後の2年間の学業中断もあり)特に英語は0点と言われても仕方がない位自信がありませんでした卒業後、何の因果かアメリカでの仕事に英語で苦労することになりました。

川西農高(現帯広農高)林科3年当時(大園:最前列右端)

恵廸寮入寮 恵廸寮に入寮したいと願書を出しましたが何の連絡もなく、札幌には知り合いもなく、とにかく布団と身の回りの品を恵廸寮宛送付し不安な思いで恵廸寮に行きました。すんなり入寮を許可され恵廸寮寮生となりました。何もわからず軟庭3号室に入寮。部屋の白壁に大書してあった3号規約「朝寝して、夜寝るまで昼寝して、時々起きて居眠りをする」にはびっくりしたり安心したりしました。三条・川西両先輩と私たち新入生2人の4人部屋での生活が始まりました。先輩ぶらずに対等に接してくれた両先輩にこれが大学生なのだと感心しました。(私達の部屋が特殊だったのでしょうか?)
                     
寮祭ではギター独奏「荒城の月変奏曲」「さくら変奏曲」など演奏し、その時撮ったたった1枚の写真と寮祭のご馳走を前に長々寮歌を歌わされた写真などが私の宝物になっています。懐かしき青春の1コマです。

(その後、就職した鮭鱒母船勤務中、スクリューコンベアで左人差指の靭帯切断しギターを弾けなくなりました)

19671月上旬 現地新聞「Sewardの新工場」の記事

Japanese andAmerican Fish Development

Co of ALASKA

(要約:川部社長Jack Werner副社長)
50万ドルの投資で最新冷凍工場を作
り、大鮃、鮭、タラバガニ、エビを加
工し、年間
75100人の雇用が見込まれる。所属5060隻の漁船が必要)

Sewardの新工場を報じる現地新聞

恵迪寮 寮祭で ギター独奏

帯広農高 林科3年当時写真

帯広市&スワード市との交流 (1)